G.の備忘録

音楽と読書と映画と散歩と、

1Q84 読了。

僕を襲った燃え尽き感・空白感ってもう1週間も前の出来事だなということで、ラストちゃっちゃと書いちゃいます。

 

掲題の通り、村上春樹1Q84」読了しました。

前2つ書いてきましたが、これから来る空白感が1番強かった。

何せ文庫本6冊で1作品ですから。クソ長い。

けど、いざ読んでみると意外にもするする読めた。

読んでる最中はいろいろ考えながら読んでいたんですが、読後感の爽やかさにあれこれ考えるのが野暮な気さえしてくる。そんな作品でした。少し感想を。

 

ノルウェイの森が100%の恋愛小説って触れ込みだったけど、1Q84の方が恋愛(もっと言えば純愛)小説だし、僕の読んだ村上春樹作品では1番そういった側面が強い印象を受けました。

そもそもノルウェイの森に関して言えば、確かに主人公は直子を求めてはいたけど恋愛小説ではないかなと。早々に緑ちゃんルートに行ってたらある意味ではリアリズムな恋愛小説であったと思うけど、それはあまりにもチープ。けど、どう考えても緑ちゃん最高でしょ。

ちなみに読んだ村上春樹作品で覚えているのだと

ノルウェイの森「生と死」

ねじまき鳥クロニクル「根源的な悪との対決」

スプートニクの恋人「子と親」

多崎つくるは謎解き小説

ってイメージ。

そして今回の1Q84はどんな障害があっても相手を求める「純愛小説」であったと思ってる。

風の歌を聴けとかも読んだんですが、読後感の爽やかさで感じていたことがすーーっと抜けていってしまった。(逆にそうならないように読書の記録として今回は書いてます。)

 

「リトル・ピープル」について思ったこと。

リトル・ピープルとは今作の主人公と敵対する集合的無意識が具現化した姿。

敵対する悪として描かれているので具体的に言えば、魔女狩りとか、学校とかにいた何故かいじめられている子とか。誰かしらに悪意を向けて安心していたい。次に悪意を向けられる対象は自分かもしれない。特に理由もなく誰かを嫌忌する意識を我々人間とは独立した存在として具現化したものがリトル・ピープル。

この概念からネットでの炎上を僕はイメージしてた。

 

1Q84が発刊されたのは2009年。その頃はmixi全盛期でクローズドなSNSなので有名人と一般人の間での交流はかなり限られていた。

けど、その後TwitterとかよりオープンなSNSが主流になっていって、有名人と気軽に交流ができるようになった。その反面、影響力のある有名人が一般人を批判することもできるようになってしまった。(引用RTとか)

確かに批判されるユーザーには道徳とか倫理観どうなってんねんってユーザーも多いし、有名人も悪気はないし、むしろ良かれと思ってやってるのもわかる。

 

けど、もしその批判がミスリードによるお門違いの批判だったら?

これたまにTwitterで見るんですけど、本当にしんどい。

何がしんどいって、その批判(もはや個人への攻撃)が拡散されたり、「その通りだと思います!流石です!!」みたいな手放しの称賛リプライがたくさんされていること。フォロワーとはよく言ったものだと思う。

そういう人たちは謂わばリトル・ピープル(あるいは敬虔な信者)な訳で、あれこれ言ったところで無駄なのかもしれない。だから影響力のある人は一般の人と接するとき特に自覚的であって欲しいと思うんです。

あんな地獄そうないよ。狂ってる。

"大いなる力には大いなる責任が伴う。"

スパイダーマン見るのオススメ。

 

リトル・ピープルの声を代弁する教祖はもういらないんじゃないですか

 


かく言う僕も当然、ミスリードしてるのは僕では?てかTwitter向いてなくない?とか思うんですけどね。

 

などなど。。。

いろいろ考えながら読んでたんですが、読み終わったらこんな憂いも全て放っぽり出したような感覚になった。いや、本当によかった。

かくして僕は物語の顛末からくる充足感と自分史上最も長い小説を読んだというほんの少しの達成感だけを残して空っぽになってしまったのでした。

 
ようやく僕の中に溜まってたものを3つ書けた。。

空っぽでぷかぷか1週間生きたんですが、ようやく地に足が着いてきたような気がします。

生きるぞ。